みすず学苑は、
レベルが高い生徒が行くと思う方へ

そうではありません。どんな生徒も、レベルが高くなる予備校なのです。学苑長の予備校経営のルーツを知れば、その事が解るはずです。学苑長こそが、誰よりも受験で苦しんだ生徒だったのです。ここに、学苑長の「アニメソングと予備校経営と、何でもボーダレスになった経緯(いきさつ)」というエッセーを紹介致します。これを読めば、皆さんもお解りになるはずです。

「アニメソングと予備校経営、
何でもボーダーレスになった経緯
(いきさつ)」

みすず学苑 学苑長 半田晴久

私がカラオケで、最も歌いたい曲は何かと言えば、それは昭和のアニメソングやテレビの主題歌です。イントロがキャッチーで、AメロやBメロのサビがはっきりしてて、歌詞が明るく、前向きです。当時の主題歌は、そういうものばかりでした。
私は子供の頃に、何の音楽教育も受けてません。なにせ、ピアノは35才から、バイオリンは36才から、作曲は38才から、声楽は40才から、音楽理論と指揮は44才から始めました。武蔵野音大特修科を46才で卒業し、48才で西豪州のアカデミー・オブ・パフォーミングアーツの大学院に入り、卒業したのは51才です。この時に、修士号を取りました。それから、毎年フルのグランドオペラをやり、世界中で多くのコンサートをやってるのです。
全ては、仕事をやりながら、会社経営と同時にやって来ました。普通のサラリーマンでないからこそ、時間と費用が捻出できたのです。私の音楽教育が、いかに晩学だったかお解りでしょう。
ところで、学校の勉強は、先生からやれと言われた宿題は、素直にやりました。しかし、言われなかった予習復習や問題集などは、全くやらなかったのです。放課後は、田んぼや川を駆け巡り、少年サンデーや少年マガジンを読み耽(ふけ)り、テレビやアニメに夢中でした。ちょうど、小学校の頃にテレビが広まり、プロレス中継や「鉄腕アトム」のアニメが始まったのです。それで、いつもテレビを見て、どこでも主題歌を歌ってました。だから、当時の歌は、今でも全部歌えます。それが、子供の頃の唯一の音楽教育だったのです。
今はオペラでも、ポップスでも、演歌でも、何でも歌います。作詞、作曲や指揮もします。それで、私が子供の頃から優秀で、音楽教育を受けてたと思われるようです。しかし、実際は全くの逆です。勉強なんかせず、田んぼでカエルやザリガニ、コウモリを取り、川で鮒(ふな)やドジョウ取りに没頭してました。また、原っぱや住宅街でトンボを取り、蝶や雀の捕獲に命がけでした。さらに、家の屋根を走り回り、忍者になり切ってたのです。毎日毎日、テレビに釘づけでした。そして、テレビで見た忍者の新しい技を、翌日試したのです。そう言っても、信じてくれない人には、当時のアニメやテレビの歌を、マイナーなものまで歌うと、ようやく信じてくれるのです。
小学校では勉強せず、本も読まず、ビー玉やメンコ遊び(関西ではベッタンと言った)に夢中でした。毎日、弟と一緒に遊びまくり、難しい技の要るコウモリや雀、田んぼのザリガニ取りに挑戦し、泥んこになってたのです。

ところが、中学に入ると、松本君と立岡(たつおか)君という友達ができました。この二人が、「中間テストの準備をしよう」と誘ってくれたのです。「は? 中間テスト? 期末テスト?」という感じです。最初は、何の事だか意味がわからなかった。私の小学校には、中間、期末テストもなく、予習復習も言われなかったのです。だから、「試験準備」という概念がありません。しかし、この二人がテスト勉強に誘ってくれて、やり方を教えてくれたのです。それで、なんとか中学の成績は真ん中くらいでした。彼らがいなかったら、きっと落ちこぼれてたと思います。
この松本君が、ベートーベンの熱烈なファンで、ベートーベンの話ばっかりするのです。彼の家には、ベートーベンの胸像もありました。しかし、当時の私は、「ベートーベンって何じゃ。弁当べんか?」という感じです。
松本君に、「これがいい」と最初に聴かされたのが、「田園」です。ブルーノ・ワルター指揮だったと思います。これが、初めて聞いたクラシック音楽だったのです。「田園」は、今でも頭に焼き付いてます。フレーズは、今でも口ずさめます。次に、「運命」「第九」「英雄」と、順番に聴かされました。後に、自分でフルトベングラー、ショルティー、カラヤンなど、指揮者の違うLPを聴くようになりました。しかし、最初はサビも歌詞もない、どこまでも続く曲の、どこがいいんだと思いました。しかし、無理やり聴かされてるうちに、だんだん良さがわかってきました。松本君のおかげです。この経験がなければ、クラシックの素養はないままだったでしょう。 中学1年から始まった、未体験のカルチャーショックで、「試験準備」と「クラシック音楽」が身についたのです。

ところで、私の母は、大正10年生まれの女子大出身で、観世流の謡曲やクラシックバレエ、車の運転をした、モダンガールでした。父は、大正13年生まれで、母とは親戚でした。母と祖父が従兄弟(いとこ)同志で、母は従兄弟の長男と結婚したのです。だから、3才年上なのです。二人は終戦後、ドラマチックな大恋愛の末、両親に反対されて結婚しました。しかし、結婚生活は、悲惨そのものでした。時代と運命が原因ですが、そもそも、父と母との文化レベルは、全く逆だったのです。
父は戦闘機のパイロットで、陸軍の万世(ばんせい)飛行場の航空隊に属し、特攻機を護衛する第66戦隊にいたのです。最後は、自分達も特攻することになり、水杯(みずさかずき)を交わし、父も一週間後に特攻する予定でした。その時、終戦になったのです。終戦があと一週間遅ければ、私はこの世に居なかったのです。そして、父は軍隊から帰って結婚し、みかん箱で勉強して、大学に首席で合格しました。そして、父が大学の学生会長をしてる、3年次に私が生まれたのです。
軍隊帰りの妻子持ちで、大学院でマル経を学んだ父が、その後どうなったか。サラリーマンになるはずがない。気質の激しい、定職につかない、政治に志すロマンチストになったのです。私が、政治に志さない一番の理由は、この父を反面教師にしてるからです。文学の要素も、芸術の要素もない、いつも荒れた父でしたが、フランク永井やアイジョージを聴く時は、穏やかだったのです。私は、毎日聴いてるだけでした。
そんな家でしたが、中3の時、三浦先生という素晴らしい先生に巡り会いました。英語の先生ですが、私の担任になりました。三浦先生は、文芸演劇部の顧問もしておられた。その三浦先生が、励ましたり、脅したり、勉強の基本を一から教えて下さったのです。それで、なんとか県立高校に合格できました。私の中学での、最下位からの挑戦でした。しかし、三浦先生は、合格すると確信してたそうです。あまりにも素直で、一生懸命だったからです。41年間やってる、私の予備校経営のルーツは、ここにあるのです。

ところで、高校に入ると、生徒会活動に専念してました。クラシックの世界とも、この間は離れてました。その代わり、学校の行き帰りは、つねに歌ってたのです。高2の時は、毎日、矢吹健の「あなたのブルース」です。「あなた、あなた、あなた、あなた・・・」と、大きな声で歌って帰るので、ご近所から「昨日は、息子さん夜7時に帰ったね」「昨日は、早かったわね」と、母親が言われたそうです。ご近所が、皆、私の帰宅時間を知ってたのです。
声楽を始めた頃は、ビルの谷間でよく歌ってました。銀座の三越や松屋から、道路をはさむ向かいのビルに向かって、大きな声で歌うのです。すると、声が跳ね返って気持ち良く、大変ワクワクします。PM10時過ぎからでかい声で歌うと、よっぱらいだと思われるので、問題ないのです。それを、日中にやると、警察が来て特殊な病院に運ばれます。時間帯が、大切なのです。

ところで、18才の浪人時代からは、明るく楽しく歌うより、一日に一冊本を読むようになりました。そして、ブルーノ・ワルター指揮の、ドヴォルザークの「新世界」や、スメタナ合奏団のビバルディーの「四季」を、夢中で聴きました。また、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、「アイーダ」や「タンホイザー」の序曲など、朝から晩まで聴いたのです。叔母がくれた、リーダースダイジェストの、「ライトクラシカル名曲集」という約120曲入ったセットを、100クール以上も聴いたのです。そして、大学に入るまでに、有名なクラシックはほとんど聴きました。一年で終わらなかった浪人時代は、恋人に振られるし、家は荒れるし、人生には行き悩むしで……。クラシックを聴くか、本を読むか、思いを日記にぶつけるしかなかったのです。いろいろ憂い迷うと、クラシックを聴きながら、本を熱読してました。恋愛論、人生論、哲学書、宗教書、徒然草などの古典、名作小説など、多種多様です。
受験勉強は、その間にしたのです。これらの経験が、41年間やってる予備校経営の、厚い肥やしなのです。浪人生や現役生の気持ちが、いつも痛いように響きます。今思えば、浪人時代のクラシック、熱読書、日記に思いをぶつける習慣、豊富な受験勉強、孤独をバネに生きる習慣は、どれもプロフェッショナルになってます。そして、今も、浪人時代とあまり変わらない毎日です。大学は、5つ卒業しましたが、6つ目の大学に悪戦苦闘してます。その次は、7つ目もあるのです。75才までは、学生でいるつもりです。
思えば、子供の頃に夢中でカエルを取り、ザリガニやトンボ、鮒(ふな)やドジョウ、雀やコウモリ取りに没頭したのが、成長して対象が本に変わり、クラシックに変わっただけです。さらに、それが美術や学術、経営や神社探求に変わったのです。実は、高2の終わりまで、日曜日や夏休みは、近所の川で魚を取ってたのです。高校を卒業して、ようやく身長が160cmを越え、それから25才までに7cm伸び、それから3cm伸びたのです。いかに、私の身体が晩熟性だったかお解りでしょう。逆に言えば、それだけ少年時代が長かったのです。
このように、私の音楽のルーツは、小学校時代のテレビとアニメ主題歌、そして、中学時代からのクラシック音楽です。そして、オペラ歌手としてのルーツは、高校時代にあるのです。つまり、大きな声で歌って通学した、あの毎日です。また、音楽に取り組む姿勢は、カエルや魚をつかまえる、遊びの没入感です。徹底的に凝り、工夫する自分は、やはり遊びに没入した、長い少年時代がルーツでしょう。そして、私の歌のルーツは、昭和のテレビとアニメ主題歌なので、サビがはっきりして、明るく前向きなのが好きです。
青山テルマとか、宇多田ヒカルとか、倉木麻衣とか、最近のサビがはっきりしない曲は、どうも音楽でない気がします。起承転結を、はっきりさせて欲しいです。それでなければ、オペラやオーケストラのように、ドラマチックに歌って欲しいです。いつも、どちらかにしてくれ!と叫びたくなります。それはちょうど、英語やイタリア語の歌を歌ってると、フランス語に腹が立つのと同じです。HやTを発音せず、2/3ぐらい省略して発音するので、言葉にサビやメリハリがありません。これを、美しい言語と言うならば、根性なしのオカマ男の美でしょう。最近のハッキリしないポップスは、そういうフランス語に聴こえるのです。
ところで、私が高校の頃は、グループサウンズの全盛時代でした。グループサウンズも、アニメの主題歌みたいに、サビがはっきりしてました。大学時代になると、フォークの全盛期です。かぐや姫の「神田川」とか、吉田拓郎や井上陽水の時代です。しかし、フォークはあまりなじまなかった。なぜ、ナイフがないのかと……。ギターも、どうしてもなじまなかった。ギターを、やろうとしたこともありますが、ギターを持つと、力が抜けるのです。どうも、品がない気がして、合わないのでやめました。アニメソングとクラシックが、私の音楽のルーツだからでしょう。

話は変わりますが、私が25才の時、師匠の植松愛子先生と出会いました。翌年、私の大学の後輩たちが集まり、予備校を作ったのです。当時、皆でカラオケを歌うと、「神田川」を歌う人もいました。そして、私が「神田川」を歌うと、植松先生に「やめなさい、そんな、小市民の歌なんか。女々しい、根性なしの、小市民が歌う歌だわ。やめなさい」と止められました。
植松先生は、菅原洋一や美川憲一、東京ロマンチカ、クールファイブなど、ムード歌謡や演歌が好きなのです。そして、私に「女心をドラマチックに歌ってよ。それか、男らしい歌を歌ってね」と言います。東京に呼び、近くに住むようになった父は、フランク永井とアイ・ジョージを歌えと言います。どれも、好きではなかったですが、植松先生と父のリクエストなので練習し、人間ジュークボックスになって、やけくそで歌い続けました。そうでないと、宴会では許されなかったのです。無論、一番好きなアニメソングなどは、絶対に歌わせてもらえません。「やめなさい。そんな、子供の歌なんか。もう、子育ての時に、さんざん歌ったわ」「あの…。それは、童謡では…?」「どちらも、同じようなものよ」と、却下されるのです。

ところで、前述の如く、35才からピアノを始め、40才から声楽を始め、44才から音楽理論を学び、音大受験をしました。この時、中1からクラシックを聴いてたのが、本当に役立ちました。ピアノも、習いはじめてからコツコツ弾いて、曲を作るようになったのです。
こうして、46才で音大の特修科を卒業し、48才からオーストラリアの2大音楽教育の殿堂、アカデミー・オブ・パフォーミングアーツの大学院に入学しました。3年かけて学び、修士号を取得したのは51才です。すでに、46才でオペラ歌手としてデビューし、毎年、日本語や中国語のオペラをやりましたが、アカデミーを卒業する頃から、方針を改めたのです。まずベルディーやプッチーニ、モーツァルトの難曲と言われる名曲の、主役や準主役にチャレンジしたのです。そして、フルのオペラをやる中で、オーストラリアからアカデミーの教授を呼び、実際のオペラ演技の中で、生きた声楽を学んだのです。つまり、パフォーミング・アートとしての声楽です。
だから、楽譜は、どんなに難しくても読めます。楽譜が読めるおかげで、「残酷な天使のテーゼ」とか、中島みゆきとか、「昴(すばる)」や「マイウェイ」など、自分の年代になかった難しい曲も、すぐに歌えます。ベルディー、プッチーニ、モーツァルト、ドニゼッティのオペラ以上に、難しい楽譜のポップスはありません。だから、楽譜さえあれば、どんな曲でも楽しく歌えるのです。また、オペラの発声や多様な表現力に加え、ポップスのビート感覚、裏拍感覚、スイング感覚、フェイク感覚、小節や語りかけ感覚をマスターすれば、どんな歌でもオールマイティーに歌えます。ヒットした名曲は、どの曲も味があっていいものです。ジャンルに関係なく、いいものは、やっぱりいいのです。もし、小さい時から、ピアノやバイオリンの音楽教育を受けてたら、偏っていたでしょう。また、中1で松本君に、無理やり聴かされなかったら、クラシックの素養はなかったでしょう。そして、植松先生と父という、強引な目上がいなかったら、自分の年代に流行(はや)った曲しか歌えなかったでしょう。

これが、私がボーダレス歌手になった経緯(いきさつ)です。クラシック音楽の、高いレベルを追求しながら、人との出会いで、ボーダレスになったのです。おかげで、今はジャンルを越えて、何でも歌えます。アメリカンポップスも、特に興味はなかったのですが、人がいいと言うものは、何かいいところがあるのだろうと思い、CDと楽譜を取り寄せ、歌うようになったのです。今では、大好きになりました。
ゴスペルもいいと思いますが、木遣(きやり)や民謡と同じに聞こえます。コーランの唱和も、ゴスペルや声明(しょうみょう)に似てます。土着の音楽には、共通点があるようです。これも、歌う気になれば歌えます。なぜなら、そういう素養があるからです。
私は、もともと大学で能楽をやり、53才で宝生流の師範になり、社団法人能楽協会の会員になりました。これで、歴(れっき)とした能楽師になったのですが、職分のプロでないだけです。それでも、エジプトのスフィンクス前やアンコールワット、メトロポリタン美術館や国連本部、また東京大薪能などで、シテとして演能しました。能楽や流派を広めるために、いつも家元と一緒の舞台でした。演能回数は、43回です。森田流の能管(のうかん)も、大学4年からやってるので、だいたい吹けます。

また48才から、京劇の泰斗の王金璐(おうきんろ)先生と葉蓬先生に、人民大会堂で拝師(パイシー)の儀式をやり、入門しました。そして、2002年に、CCTVの京劇コンクールで金龍賞を受賞し、北京市立京劇院の正団員になりました。さらに、シドニーオペラハウスでの、関羽の演技が認められ、国家二級京劇俳優になったのです。この能や京劇の発声、小節や言い回しは、ゴスペルや木遣(きやり)、民謡や声明(しょうみょう)に似てます。だから、やろうと思えばやれるのです。しかし、誰もそれを聞きたがらないので、やらないだけです。声明(しょうみょう)は、少しやりましたが……。
それから、56才の時に、「明るすぎる劇団・東州」を旗揚げし、演劇人になりました。その時に、大学時代から、勝手にやってたパントマイムを、本格的に舞台で演じるようになったのです。すべては、創作のパントマイムです。 それから、42才からクラシックバレエをやり、創作バレエにチャレンジしました。そして、20世紀最高のバレリーナ、ロシアのバレエの女神と言われる、マイヤ・プリセスカヤと、2度共演したのです。本格的なクラシックバレエは、体力的に無理なので、創作バレエに挑んだのです。この時に、クラシックバレエの基本や魅力、鑑賞や歴史を学びました。
こうして、いつの間にか、オペラ、能、京劇、演劇、バレエ、パントマイムという、ボーダレスな舞台俳優になったのです。音楽と舞台芸術は、本来不即不離の関係にあるのです。だから、音楽をボーダレスに追求し、パフォーマンスをボーダレスに追求すると、自然に融合するのです。昆虫から爬虫類、魚貝類、鳥類、動物類、忍者類へと、好奇心と捕獲の夢は進化し、自然への愛に融合されます。これと、全く同じなのです。
ところで、古典芸術や舞台芸術の面白さは、格別なものがあります。しかし、私が心底楽しんで歌えるのは、やはり、昭和のアニメソングとテレビ主題歌なのです。月光仮面や七色仮面、仮面の忍者赤影や仮面ライダーなど、仮面類は、麺類と同じくらい大好きです。それを、バンドやオケの生演奏で歌ったら、この上なく幸せです。本当は、そればっかり歌いたいくらいです。

昭和のアニメやテレビは、勧善懲悪で必ず善が勝ち、愛と友情、正義、努力、勝利、希望がテーマです。少年ジャンプのキーワードは、「友情、努力、勝利」ですが、その他のコミックも、だいたい同じです。年代的には、私はその前の少年サンデーと少年マガジン派です。その後から、少年チャンピオンや少年キング、少年ジャンプが出て来たのです。それらのコミックも、テーマは共通してたのです。これが、テレビアニメやドラマとなり、主題歌が作られたのです。それは、歌謡曲やポップスの、好いたはれたの曲ではなく、前向きで、ポジティブで、希望に満ちた明るいものです。私の精神構造にも、ピッタリ合っています。特に、自分でアニメや主題歌を作るようになると、これが自分のルーツなんだと、しみじみ思えます。
このように、私の心と魂の一番深い部分にある、音楽のルーツこそが、昭和のアニメソングとテレビ主題歌なのです。そして、舞台芸術の創作や演出も、明るくて前向きなものばかりです。つまり、これらのルーツも、昭和のアニメとテレビ番組にあるのです。